『推し、燃ゆ』を読んで
『推し、燃ゆ』を読んだので、冬休みの課題として読書感想文を書いてみます。
まだ読んでいない人にも、読んだ人にも、できるだけ配慮して書きました。
『推し、燃ゆ』/宇佐見りん
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。
主人公のあかりは推しを背骨と言う。触れ合いたい対象ではなく、憧れでもなく、生きる糧でもない。立って、歩くための背骨。背骨には脊髄が通り、脊髄は意思と肉体を繋ぎ、生きていく。理不尽な社会の中でなんとか生活をしていく。推しは背骨。
社会は未だ厳しい。こう在らねばばならないを、押し付ける。永遠に生きづらい。
多様性と言いながら、歪さを嫌う。
「推す」は多様である。
僕の推しは、僕の背骨ではない。
僕の中には棚がある。棚にはそれぞれ決められた色の、同じ形のファイルがピタリと収まっている。それぞれのファイルには背表紙に(職場)(同級生)(前の同僚)(その他)といったテプラが貼られており、ファイルを開くと更にインデックスで仕切られいる。インデックスには個人の名前が印字され、個々人の情報が打ち込まれたカルテが作られている。所々名前を貼り忘たインデックスもあるが、カテゴライズしてあるので中身を読めば誰のカルテかは大体判断する事ができる。一方で、推しには推しに合わせた装丁の厚みある布地のファイルが用意されている。背表紙には推しの名前が直接刺繍されており、開くと丁寧に細かく書かれた文章とともに、音楽が流れる仕掛けや擦ると香りがするページもある。そして推しのカルテは、いつだって棚の一番手の届きやすい場所に置かれている。
それぞれの推しがおり、それぞれの推し方があり、それぞれの推しの祭壇がある。
それでいいんだと思う。社会が「推しを愛でる会」であれば、どれだけ生きやすいだろう。
推しが燃えて、推しが燃えて、骨の髄から熱くなる。骨は残り、立てなくても這いつくばりながら、骨を拾う。これがあたしの生きる姿勢だと、当分はこれで生きようと思ったあたしは、僕であり、誰かであり、骨が燃えて新たに萌える救いの物語に感じ取れた。
とても好きでした。
BGM:くるり「WORLD'S END SUPERNOVA」
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