雑記 2021.4.12(月)先生なんて呼ばないで
今年度の講義に向けて内容を見直す作業をしている。毎年同じ単元の講義がいくつかあるが、講義の中身は毎年違う。マイナーチェンジだったり、フルモデルチェンジだったり。理由はカリキュラムの中身が微妙に変わるのもあるが、どちらかというと前年度を見返した時に自分の捉えが変わっているということが大きい。たったの一年分でも価値観が上書きされているから、同じ文献や事柄から資料を起こしても伝えたいことや考えたいことが違っていてハッとさせられる。あぁ、以前はこれが良いと思い伝えていたけれどいま考えると微妙に違うな、というズレ。そして、去年に戻って伝え直したいという後悔がズンと心に生まれる。
人間考えながら生きていれば価値観が変化するのは当然だと思う。むしろ、上書きされない方が危険だよね。という案件が世の中に溢れていて「自分は大丈夫だろうか?」と日々ドキドキしながら生きている。だから本来は毎年講義内容が変わることは、価値観の上書きがされていることで喜ばしいことだ。けれど僕にとっての新しい知識は常に古くなっているのに、相手が常に「新しく学んだ知識」として保持する可能性があるから、自分の上書きの気付くといつも同時に「それまで伝えた方に訂正して回りたい」という気持ちになってしまう。
最近はね、相手のことを理解する姿勢って看護では必要だと考えている反面。生きる上では理解しなくてもいい(できない)距離を適切にとる選択もありだと思うんですよ。自分を守るために、または解決できないぶつかりを回避するためとか。絶対にこうするべきですよとかじゃなくて、ケースごとの適切なやり方がきっとある。でも講義で人の前に立って看護における僕の考えを話すと、それを生き方全部に寄せて考えちゃう人がいるんだろうななんてことを、考えちゃってうーーーんってなっちゃう。
考えても仕方がないのはわかっているんだけど、年度の振り返り以外でも半年やもっと短い頻度であーーーーーーー訂正して回りたい!症候群が発症する。しょうがないの、しょうがないんだけど、叫びたくなってしまう。だから、せめてその時の最善を考えて講義を組み立てようと努力している。それと、講義をしながらも答えを模索している上書きしていきそいうな事がたくさんあるから、一方的なものではなく一緒に考えるような組み立てを心掛けている。人に何かを伝えるって本当に難しい。でも、上書きされている実感は正否は別としても喜ばしい。
BGM:TENDRE「PIECE」
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