それぞれの、ジョゼと虎と魚たち
『ジョゼと虎と魚たち』がアニメ化された。
アニメ化すると聞いた時点で、何か僕の中の大切なものが汚された気分になった。
僕が『ジョゼと虎と魚たち』に出会ったのは2003年の実写映画だった。
高校時代からの、ずっと話をしていられる友達が、二回目を観たいから行こうと私を誘ってくれたのがきっかけで、「絶対好きだと思うよ。」と言って誘ってくれた気がする。
出ている役者が妻夫木聡(このあとに『きょうのできごと』『69』『約三十の嘘』と、僕の青い時代のどこかにいつも妻夫木聡がいた)、池脇千鶴(ドラマ、リップスティックで気になり始めた気がする池脇さん)、新井浩文(くんは赤目四十八瀧心中未遂の次がこの作品で、この頃友達ががっつり好きだったんだよなぁと懐かしくなる)、と多感な時期の僕をぐわしと鷲掴みにしたメンツで、トドメに音楽を担当しているのがくるり(はこの頃から今だって僕の大好きな音楽)だったもんだから、もう、二つ返事で一緒に観に行った。
この頃からシネコンが幅をきかして、大きな作品はシネコンで見るのが習慣になっていたけれど、ジョゼはシネコンとミニシアターの中間くらいの、ゲーセンとボーリング場と映画館が一緒になっている賑わってるけどどこか寂れている場所で上映されていた。懐かしい。
赤と緑のビロード生地が似合うその映画館は、今でも立派にゲームセンターとボーリング場と映画館を共存させている。時代が変わっても、何年経っても劣化したまま劣化しないみたいな佇まいで、そこにある。
映画を観た後すぐ、パンフレットを買った。
パンフレットを読んだ翌日、2回目を一人で観に行った。
その後に原作を買って、読んで、サントラを買って、DVDの予約をした。
サントラを聴きながらパンフレットで思い出して生活をしていた。
DVDでもう一度観て、オーディオコメンタリーがサイコーだと友達と盛り上がった。
その全てが手元に残っている。
くるりは今でも聴き続けている。
主題歌のハイウェイはいつでもあの時の切なさに僕を連れて行ってくれる。
犬童一心監督をここで知り、大好きになった。
この映画で江口のりこを知って、今でもずっと好きなままだ。
そこで出会えたものは今でも大切なものになっている。
それくらい、ジョゼと虎と魚たちは僕にとって思い入れのある映画なんだ。
実写版のジョゼと虎と魚たちの終わりは、万人が感じるハッピーエンドではない。
とても切なくて、絶対に幸せになって欲しいけれど、あの終わり方が二人にとって現実で、人間らしく迷って足掻いた結果で、生きていくための選択なんだろうと思っている。
作中とても幸せな部分はあるけれど、それでも全体を覆う雰囲気は物語の終わりを終始予感させる切なさがある。犬童一心監督の手腕なのか、くるりが作る音楽の温度なのか、映画を評せるほど賢くない僕にはわからないが、その雰囲気こそが僕がジョゼと虎と魚たちを好きでいる部分なのは間違いがない。
人間のリアルさだったり、残酷さと美しさだったり、今ならエモさで包括できる心震わす切なさや哀愁であったり。そこが美しくも切なく愛おしい、僕の好きなジョゼと虎と魚たちだ。
だからアニメの予告を見た時に、カラッとした、今にもRADWIMPSが流れてきそうな、坂を滑るジョゼを恒夫が受け止めてジョゼ「これってもしかして…」恒夫「俺たちの身体が…」二人「入れ替わってる〜!」ってなりそうな、そんなジョゼと虎と魚たちを見たときに、僕のジョゼはどこにもなくなったように感じたんだと思う。
その時代時代に求められることはもちろん違う。人それぞれ好きになるものはもちろん違う。昔だから受け入れられていたこともあるし、今は良くも悪くも多様性という言葉の強い面に配慮し過ぎてしまうこともあるのかも知れない。
僕にはアニメ版のジョゼと虎と魚たちが、今に合わせてブラッシュアップして、原作と映画版にあるジョゼと虎と魚たちたる部分をきれいに削ぎ落として、遠くから見るとジョゼと虎と魚たちに見える別の映画に感じてしょうがない。
アニメ版は魚の雰囲気はあるけれど、虎は出てくるの?
この作品の虎は何?
虎がいなくて魚は魚として成り立つの?
これは多様性と本当に向き合って、考えて、対話して、そこから芽生えた愛なんだろうか。
これから観る人が、それぞれの価値観で、それぞれの時代の空気で、それぞれの楽しみ方をすればいい。ただ、あの頃の、あの哀愁が堪らなく愛おしいジョゼは、恒夫は、孝治は、もうそこにいない。
僕にとってはもう全く違う作品。世の中にとってはこれがこれからのジョゼと虎と魚たち。
ただ、僕はまだアニメ版を観ていない。
BGM:くるり「ハイウェイ」
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